
時が経つのは早いもので、つい先日年が明けたと思っていたら、21日にはJリーグの日程が発表され、1カ月後にはいよいよJリーグが開幕する。今から30年前、日本初のプロサッカーリーグの開幕を心躍るようにして迎えたことは昨日のことのように覚えているが、あの時感じたワクワク感は30年たった今も変わらない。記憶や記録に残るシーンの数々や、その時々で感じた喜びも悔しさも、すべて自分の心の中に大事な財産として刻まれている。このコラムでは、その記憶をたどりながらJリーグの30年を振り返っていきたい。
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初年度の1993年は観戦チケットが発売と同時に完売するという大盛況ぶり。チケット争奪戦に敗れた私は、当時はまだ珍しかった衛星放送(CS)でJリーグ全試合の中継(録画含む)が行われることを知り、高価だった受信機を36回払いで購入して全180試合をすべて見ることを決意した。当時は水・土の週2回開催。サラリーマンに傍ら1週間で視聴するのは10試合。当然のように我が家のTVにはサッカーばかりが映し出されるようになり、生活の中心がサッカーに変わった。
1993年で最も強く残っている記憶は、第1節の鹿島アントラーズvs名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)の試合。ただ、ただジーコの姿にしびれた。JSL(日本サッカーリーグ)2部から唯一Jリーグ参入を認められた鹿島だったが、ジーコは「我々のようなチームは一番最初に記憶に残る成績を残さなければ何も起こらない」として初年度1st stageで優勝することを目標に掲げて臨んでいた。その試合で見せたジーコの姿は、まさにプロ中のプロと言えるものだった。
その時、ジーコは既に40歳。ブラジル代表の10番を背負い、リーグ戦通算810試合出場564得点、ブラジル代表としては71試合出場48得点という大記録を残して世界的に名を馳せたジーコは1989年に一度引退。1990年にはブラジルのスポーツ担当大臣に就いていたが、住友金属工業蹴球団からの熱心なオファーに応える形で現役復帰していた。その想いは鹿島をサッカーの街にすること、そして日本にサッカーを根付かせたいというものだった。
その想いを形にしたのは25分。相手DFのミスでペナルティエリアの外にこぼれたボールに右足を一閃。矢のようなシュートがゴールネットに突き刺さる。そして2点目もジーコ。左45度の角度、距離にして20数メートルの位置で得たFKを直接ゴールに叩き込む。さらに3点目のアルシンドのゴールをアシスト。この日のカシマサッカースタジアムはジーコのために用意されていたかのようだった。
そして私の脳裏に強く残っているのは鹿島の4点目。左サイドで待つアルシンドにパスを送ってゴール前へ走り込むジーコ。アルシンドを捉えるTV画面から一瞬姿が消えたが、次の瞬間、画格の外から現れて左足インサイドでゴールネットを揺らした。最終スコアは鹿島の5-0。「一番最初が肝心」という自らの言葉通り、3得点1アシストという結果で示したジーコ。そして、その後も勝ち星を重ねた鹿島は記念すべきJリーグ初年度の1st stageで優勝を遂げた。
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さて、このコラムは、Jリーグにとっての重要な出来事ではなく私の記憶に残るJリーグの30年を振り返るもので、引き続き不定期コラムとして掲載していく予定だ。それぞれの人には、それぞれのJリーグがあり、そういう意味ではお目汚しに過ぎないが、読者のみなさんの心にあるJリーグの記憶を呼び起こし、Jリーグを考えるきっかけにしていただければ幸いだ。
[中倉一志=文・写真]
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